仏教

2011年8月16日 (火)

「空海と密教美術展」を見ての所感

先日、東京国立博物館で開催中の「空海と密教美術展」を見てきました。

手紙とか経典の書写本(巻物)を見ると、当時の人達ってすごいなーと思います。
今みたいに、印刷された活字の本なんて無い時代。全て手書きで書写した時代。そんな時代に、日本語ではない中国語。漢字だけでズラズラと書かれた書物。今みたいに、先行研究があってその解説書が印刷されて流布されているわけでもなく、全て口伝と書写だけで、あの膨大な経典を読み解くとか、当時の僧侶というのがどんだけ特殊な知識階層かって思います。てか、地頭が良い上に本気で勉強しないと無理でしょうアレ。

現代の私らは、膨大な経典の中からココがポイントですよーって言われて、そこ中心に解説書で学んでますからねえ。原典にあたるったって、せいぜい各宗派が出してる活字印刷の聖典であって、毛筆で書かれた本当の原典にあたるとか、相当専門に研究してる人しかやらないだろうし。

まあそもそも、サンスクリット語原典を中国語に翻訳した中国の高僧さん達がスーパー天才なんですけどね。その中国語経典を、うっかり漢字なもんだからそのまま無理矢理読むことにしちゃって、日本語(やまとことば)にはしないでそのまま導入しちゃったのが、日本仏教の長所であり短所であり。
お経が呪文なのは、あれ中国語だからね・・・日本語じゃないからね・・・でも日本語(現代語)にしちゃうと、有難みが薄れてしまって多分もう無理だよね。今や、逆説的に、「呪文だからありがたい」というのが本音でしょう。

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2009年9月 1日 (火)

日本人の「無宗教」とは

さすが有効求人倍率0.43(正社員0.24)のご時世、なかなか就職が決まりません。書類選考を通過して面接に行けること自体がほとんど無いです。ハローワーク経由のはだいたい面接には行けるけれど、一人の募集に対して10人20人当たり前なので面接で落ちちゃってますし、転職サービスのほうは書類通過すること自体が奇跡のような状態(^^;

で、長い夏休み状態の利点を活かして、先週は仏教の集中講義を受けに8日間大学に通ってました。これが30日までだったので、「学業」を理由にして期日前投票をしてきました(笑)(↑リンク先は見やすいので科目等履修生の案内ページにしてますが、一応編入生で在籍中。ロクに単位取れてませんが(苦笑)科目履修生、正規生より学費高!(^^;何でもバラ売りしているものは高いんだな。今年の学費は失業前に払ってあるので問題なしですが、来年…)

実家はお寺ですが進路選択時は全くそんなことは考えておらず仏教系の大学には行ってないので、今頃 通信でぼちぼち学んでます。今回受講していたのは下記2科目。
●現代と仏教
●仏教基礎入門 ─原始仏教と初期大乗仏教─
講義を聞くのもさることながら、最終日のテストでB4用紙1枚分をその場で書かないといけないので(持ち込み可なので暗記する必要はなし)、書いてまとめるのは勉強になるなあとしみじみ感じます。やっぱ読んだだけ聞いただけだと、分かったようで分かってない。自分で書いてみると、まとまるし、定着する。アウトプットは大事です。

日本人の「無宗教」について。
日本人の無宗教は確固たる信念に基づく「無神論」とは全く別のもの。創唱宗教(明確な教義や教団がある宗教)の信者ではないというだけで、むしろ日本古来の自然宗教(自然発生的な習俗的宗教)の熱心な信者だったりする。まあ若者はそうでもないとしても、中高年以上の方々は熱心に墓参りをして先祖供養を欠かさない。お遍路めぐりなんか定年後の方々に大人気。若者にしても混んでる神社にわざわざ初詣に行く人も多いわけで、お盆の帰省・クリスマス・七五三などの各種の宗教的なイベントに全く参加しない人はあまりいない。それを「宗教」とは思っていないだけ。
統計によると、信仰を持っていると自認する日本人は10%以下(6~7%くらい)、熱心な信者ではないけど家の宗教はあるという人を入れても20%くらい。あとは「無宗教」であると自認している。その一方で、仏教と神道の教団側からの申告だと、仏教の信徒と神道の氏子を合わせると2億人いるらしい(笑)つまり、統計上は日本人のほぼ全員がどっかの仏教宗派とどっかの神社にダブルで属していることに。
東京のひとり暮らしでは全く縁遠くなりましたが、地元にいれば地元の神社のお祭りに参加するし(させられるし)、一方で葬式となれば今でも大部分の人が仏式で執り行うので、まあそんなもんでしょう。この混ぜこぜ教が日本ならではの自然宗教。別名「お付き合いの宗教」。

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2009年6月19日 (金)

【寺よ、変われ】

寺よ、変われ
高橋 卓志

かの佐々井秀嶺師ほどのぶっとび人生ではないが(笑)、この人もなかなかに熱い僧侶である。
チェルノブイリやタイのエイズ患者支援に奔走し、「ケアタウン浅間温泉」や「ライフデザインセンター」をはじめとする各種NPO活動に関わり、自坊では斬新な法要やイベントを主催し老若男女を集め、葬儀は宗派の伝統にこだわらず故人の個性を尊重した形で行う(例:ジャイアンツの大ファンだった方の葬儀であれば式中に巨人軍応援歌を流す)・・・などなど。

その中で強調されているのは、まず『寺で行うイベントについて注意すべきことがある。寺に来るほとんどの人々が信仰を求めているのではない、ということだ。』(P108)つまり信仰を求めているわけではない人々の興味を継続的に引くだけの、魅力が必要。『(人集めができる)その秘密は「面白い」という一語に尽きる。学びが面白い。だから授業料を払ってでも駆けつける。法要が面白い。だから供養料やお布施を持って参加する。人々が面白いと意識し、その意識でイベントや法要を受け入れるようになったとき、初めて寺の本堂に、坊さんの前に、仏教の重厚な法を聴くべき人々が現れることになる。』(P116)
2つめに、『(葬儀改革の実践には)膨大な仕事量が付随してくる。誹謗や中傷を振り払い、存分な手間をかける勇気がもてないのなら改革など口にしないほうがいい。』(P188)膨大な仕事とは、例えば、火葬場の手配・遺影写真の用意・お花の手配・通夜などの料理の手配・個性を尊重した祭壇のセッティングなど。

これらを総合すると、本気で寺院運営を改革していこうと思ったら、住職は仏教そのものを学ぶのと同等の情熱で、起業家としてのマネジメント能力アップ、また医者や法律家、学者など外部の専門家との人脈作りに励まないといけないということになる。完全に形骸化しながらもタテマエ上は出家者とされている僧侶という存在が、経営という世俗にどっぷりと関わらない限りは、人々に開かれた寺院経営はできないということになる。・・・だけどそれって、跡継ぎとして仏教学部で宗門の教学を学んだだけの住職にはハードルが高すぎないか?各派本山は、経営学特講をやらないとね(笑)

ところで、最も言いえて妙!と思ったのは下記の記述
『修行や研修の場に入ることは、彼ら(家業として寺を世襲する者)にとってみれば「刑期をつとめあげる」という感覚に似ている。』(P26)まさにコレこれ、これですよ。私は別に寺の跡継ぎとして生まれたとかゆーことは全くなく、大人になってから思い立ってこの道に入った部外者なのですが、世襲ぼっちゃん達の話を聞いていると、まさにコレなのですよ(^^;

参考:住職は出家者か?経営者たるべきか?について興味を持たれた方は是非こちらもどうぞ:お寺の未来

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2009年6月 8日 (月)

菩薩を見た!

【題名】佐々井秀嶺師最終講演会「よみがえる仏教 インド仏教復興運動の今」
【日時】2009年6月7日(日)15:00~
【場所】護国寺 本堂

という講演に行ってきました。相変わらず「英語学習一筋」にはなれない人間です(^^;しかし、これを逃したら後は無い一期一会の機会。師の来日は、今回が40年ぶりにして最後、『あとは各自でインドまでどうぞ。』

佐々井秀嶺師は、インド仏教の指導者。(インドの仏教徒は現在1億をゆうに超えるそうだ。不勉強にて少し前まで知らなんだ。)比喩的な意味で「菩薩みたいな人」ならば広い世の中たくさんいるが、本物の菩薩が本当にいまこの時代、この地上にいたとは!

本に書いてあるような菩薩道の実践なんて、今の時代にあるとは思ってなかった。『(大乗仏教の推進者達は当時のインドで)社会的に相当の迫害を受けました。嘲笑や罵詈雑言を浴びせられるのはまだよいほうで、石を投げつけられたり、棒で追われたりしたこともありました。』(大乗仏教入門P57)

もちろん親鸞聖人や日蓮上人などの日本仏教の偉人達も、激しい迫害にさらされながらも己の信ずる道を突き進まれたのだが、そんな人が、今この時代にもいるのだ。それが佐々井秀嶺師。伝記「破天」を読んでいるのだが、まさに文字通り、”石を投げつけられても”なのだ。すごすぎる。

民衆の中に入って衆生救済に邁進する、真の菩薩道を実践されている方の迫力はまさに「説法獅子吼(せっぽうししく)」。衝撃受けた。自分がいかに、そういう覚悟のないままに、惰性で仏教を学んでいる人間かをつきつけられた。痛い。痛いんだけど、だからと言ってやっぱり飛び込む覚悟はないままだ。利他行に尻込みしてしまう自分をつきつけられる。自分がいかに、この恵まれた日本で、自分のことばかり考えて生きているか。その傲慢さをいつも自覚しながら生きることが第一歩か。

今の日本は、もちろんワーキングプアなどの問題はあるとはいえ、それも含めて「物質的に豊かになったあとの精神的停滞」の状態であり、インドの不可触民の人達の人権獲得への戦いとは違う次元の対応が必要だろう。葬式仏教なんて言われるけど、葬式からも仏教が消えてゆきつつある今、日本の伝統仏教教団は瀕死である。佐々井師は、人に生まれたなら宗教を持つべし、教育現場に仏教を取り入れるべしという内容のことをおっしゃられた。政教分離の問題と、宗派ごとに完全に分立している状態からして、そんな力は今の仏教界には到底ないのが現実だが・・・


それにしても、佐々井師のお弟子さん、高山龍智氏もものすごい話が上手かったな~。見事な前フリに感服。
開始15分前くらいに行ったので、立ち見になった。すごい動員数である。特定宗派の行事でもなければ、テレビ的な知名度がある人の講演でもなく、これだけの人間が仏教行事に集まるのは凄い力だ。一番びっくりしたのは、若者率の高さ。通常の仏教行事の多くは、どうにも高齢化社会である。40代以下がほとんどいない。7日の護国寺はまさに老若男女だった。

講演会の模様については、興味のある方はこちらをどうぞ
[ひじる日々]佐々井秀嶺師、護国寺講演まとめ

<参考>
君は佐々井秀嶺を知っているか :小飼弾さんの書評

男一代菩薩道―インド仏教の頂点に立つ日本人、佐々井秀嶺

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2009年3月14日 (土)

真宗入門 in Englishその2

「Ocean: An Introduction to Jodo-Shinshu Buddhism in America」


↑Oceanの日本語訳

こちらの本の冒頭では、仏教全般の入門として日本語の仏教用語で言うところの「四法印」について、独特のフレーズで説明されていました。

Life is a Bumpy road,(一切皆苦)
Life is Impermanent,(諸行無常)
Life is Ineterdependent,(諸法無我)
Life is Fundamentally Good.(涅槃寂静)

この4つを合わせて、"Think B I I G !"

うまい!

これはあくまで著者独自の説き方であり、これが仏教者の共通理解だというわけではないのですが、覚えやすく分かりやすい名フレーズだと思いました。

人生は凸凹道で(楽しい時もあれば上手くいかない時もある)、永遠不変のものはない、全ては支え合い支えられるものとして存在している、そして人生とは基本的に「よいもの」である。
反対に、人生はスムーズで(思い通りになって)、不変の何かがあって、自分の力だけで何とかできて、でも良いことなんかないと思い込む、のは間違いである、と。

明日(15日)はTOEICですね。
私は、学生時代の友人達と飛騨高山へ1泊2日で旅行に行く予定が先に入ったため、今回は受験いたしません。なのでこんな緊張感のない記事を書いておりますが(笑)
受験される皆様方がベストを尽くされることを祈っております。


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2009年3月10日 (火)

真宗入門 in English

amazon US market place にて購入した「Ocean: An Introduction to Jodo-Shinshu Buddhism in America」を読み終えました。


↑Oceanの日本語訳(原書は no image なのでこっちを出しておきます)

どう考えてもTOEIC学習者にとっては当面あまり全然役に立たない知識ですが(笑) 宗教への関心は何かしら人生の糧となりますが、TOEIC対策にはホント必要ない語彙ですんで。

個人的には、英語学習としてだけでなく、仏教の理解を深める上でも非常に役立った読書となりました!以下、自分のための備忘録として書きますが、もしも仏教にも興味のある方がいらっしゃいましたら、よろしければお付き合い下さい(笑)

●Shinjin awareness
「信心」を音写して後ろにawarenessを付けて書かれていますが、信心が単なる devotion、 faithではなくawareness であるという点、この一語で見事に仏教の要を言い表しています。仏教の信心とは偉大なる神を信ずることではなく、釈尊が説いた真理、そして自己の本質に「気付くこと」にあります。それを本書内では、
”we become aware of Oneness . ”
”In Jodo-Shinshu, this Oneness is referred to as Other Power or Amida's Primal Vow. ”
”we also become aware of our own foolish human nature.”
と解説されていました。

Oneness は、仏教用語の「一如(いちにょ)」の訳。英語のほうが初心者にもやさしいなあ(笑) 一如とは、ええと、この世の全ての存在は interdependent であり、独立して成立している存在は無いということです。(「縁起」とか「無我」とか言われているもの) そして一如とは浄土真宗においては 他力、 つまり阿弥陀仏の本願 として述べられているものであると。 他力=阿弥陀仏の本願 という時点でかなり意味不明だと思いますが、私自身も、阿弥陀仏の本願=一如 ということについてはまだうまく理解できていないので、さらっと流しておいて下さい(^^; (仏教についてはTOEICに例えればまだまだ600点台の身でありますゆえ、あまり無造作に書き散らかせません)  

foolish human nature(凡夫であること)に関して、キリスト教におけるsin と仏教の foolishness の意識の違いについても触れられていたのですが、キリスト教の原罪の理解がなっていないため、分かるような分からないようなでした(^^;


●three poisons of greed, hatred and ignorance
three poisons とは、カツマーにはお馴染みの三毒です。しかし、勝間さんがおっしゃっている三毒とは微妙に異なっているような?と思った方、その通りです。勝間さんの三毒追放=「妬まない、怒らない、愚痴らない」は、あくまで「勝間和代流・三毒の教え」なのです。仏教で普通言う場合の三毒は「貪欲(貪り)・瞋恚(怒り)・愚痴(無知)」です。愚痴とはいわゆる「愚痴ること」ではなくて ignorance だという点、英語の方が分かりやすいですね(笑) 

ignoranceの語義を英英辞典で引くと、
lack of knowledge or information about something
とあります。
つまりここで言う愚痴とは、釈尊が説いた真理について lack of knowledgeだ、ということです。

勝間さんの三毒が、仏教本来の三毒とは違うこということについて仏教者の立場から書かれている記事もありますが、勝間さんの三毒追放は生き方としてストレートに魅力的ですし、瞋恚(しんに)の追放としては間違ってないし、「他力本願」の誤用に比べたら本質はそんなにズレていないと、私個人としては思っています。


●self-power と other-power (自力と他力)
他力については、他力本願という言葉が一般社会ではすっかり誤用されているように、自分は努力せずに他人任せにすることでしょ?という誤解がありますが、そうではありません。
本書の中では、self-power とself-effort は別物であるという表現で述べられていました。そして、"Self-effort is vital and needed." そう、何もしなくて良いということではないのです。 何せ真実信心というのは 「難の中の難」でありますので。 んじゃ何をするかっていうと、念仏を唱えることと、聞法すること。聞法(もんぽう)とは、本書内の表現をお借りすると、 ”Because awareness started from beyond me, listening to the Dharma is so vital in Jodo-Shinshu”. (Dharmaとは真理のこと:日本の仏教用語では「法」)

●The Jodo-Shinshu Path :Simple Yet Not Easy
これは本書内のある章のタイトルですが、ああー、これこれこれ、念仏は易行だけど真実の信心は難しいということ。 日本語の発想で直訳して 真宗の教えは easy だけど difficult である、と言ってしまうとかなり意味不明ですが、そうではなくて、simple だけど easyではない!おおお、これは次の法話実演練習にぜひ拝借させていただこう(笑) 

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2009年2月28日 (土)

自己評価の機会

「断る力」で自己評価のための方法論として挙げられていたのが
①身近な人の意見をきく
②客観テストを使う(ストレングスファインダーなど)
③職場の人事評価を利用する
④転職エージェントの力を借りる
⑤顧客や取引先の評価を活用する
⑥インターネットの評価を活用する
でした。

本の感想記事に書いた通り、ウチの会社は「暗黙の了解」としての噂話以外には、評価・査定が全くありません。ストレングスファインダーはやってみましたが、やっぱり周りの人から直接評価をもらうことには替えられないんですよね~。
そんな中で、厳しい評価をびしばしもらえる貴重な場が年に2回だけあります。
先週1週間不在にしておりましたが、何をしてたかっていうと、実家のお寺が所属している宗派の本山(会社でいえば本社)で泊まりこみ研修会でした。これまた勤め先同様に吹けば飛びそうな弱小宗派ですが(笑)、その分派内のかなり上の人(会社でいえば役員クラス)とも密にお話をしたりご指導いただけるのが長所ではあります。
今行ってるのは若手育成の研修会で、だいたい同年代の人間10数名が集まっていて、大学の先生のご講義を受けたり、声明(お勤め)の指導があるほか、皆の前で発表するのが一番のメインと言ってもいい時間になっています。もちろん一般的なプレゼンテーションではなく、20分の法話です。それぞれ終わったあとに攻究があり、他の研修生全員&先生方から厳しいツッコミが入ります。これがまあ凹むわけですが、逆に言えば、びしばし率直に欠点を指摘されることで成長できる場でもあります。会社に査定が無い分、これを逃げずに受け止めて成長の糧にしなきゃなあと思っとります。

余談ですが、私の今回の法話発表はそりゃもうグダグダだったですが、はっきり言って、準備不足の自業自得です。私が自業自得の下手さ加減に凹んでいた頃ちょうど、
TEX加藤さんが指導者セミナーの記事にこんなことを書かれていました。【ビジネスプレゼンで一番大事なのはリハーサルです。なので、土曜日の晩と日曜日の朝は、「えー。まず、パート1、難しいです。パート1はTOEICのオアシスだ、なんていう人がいますが、860点以上の高得点を狙う方にとってはリラックスしている場合ではないのであります・・・」と、予行演習を2-30回部屋で一人で行いました。聞き手に流れが分かりやすいか、10分で終わるかなどをチェックするためです。】

2-30回!
私はたった2,3回しかリハーサルしてませんでした。そりゃー上手くできるわけないです。当然でした。やはり何においても、地道な練習こそが基本だと思い知りました。TEX加藤さんはTOEIC満点ホルダーであるだけでなく、ブログのコメントへの返信もマメで素早く、だからといって内容が雑だったりすることもなくとても丁寧で、常々すごいなあと思っていましたが、やはりデキる人というのはその土台にきちんと努力の積み重ねがあるのだと、改めて気付かせてくれた記事でした。勝間さんの「一流」の定義、「自分の軸がハッキリしており+謙虚でマメ」にもぴったりあてはまる方です。

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